「解釈」の違いがあっても許されるよね?その1「短歌」
ここのところ、折に触れて登場する(折に触れて…と言うか、引っ張りだしていると言うか(笑))藤原業平(ふじわらのなりひら)。
世の中に 絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
…桜はなにかと人の心をかき乱し思いに沈ませる…、と。
ネットで検索してもこんな感じです。
この世の中にまったく桜の花がなかったならば、あわただしく散ることもなく春はさぞかしのどかであろうに。巻第一 春歌上
惟喬親王の渚の院で桜花を見てよんだ歌。
春になると、桜の花が咲くのを待ちこがれ、咲けば雨や風が花を散らすことに心を痛める。
春の風物の中に自分を溶け込ませている作者の心情が歌われている。
そうなんですよね。
字数の制限のある天声人語では書ききれなかったとすると納得がいくのですが、ただ、桜の花のことを詠んでいるのではないと思うのです。
心を惑わす桜の花。
「なかりせば」に込められた思い。
桜の花がないとのどかであろうという心情には、やはりなくては味気なきもの、追い求めるもの…という本質と、
相手のことを思い・何もできない自分に焦りさえ覚える…というあがらえない感情。
それが人というものである、と言いたいのかなぁ〜って思っています。
…っていうね♪
好き勝手な解釈をしてもいいですよね。^ ^